雨雲の動きに嫌な予感を覚えた俺が、相棒のダルンナを呼んで近くの洞窟へ避難した直後、外は氷雨から嵐に変わり暗闇を轟々と揺さぶっていた。
「しばらくここで野営ね。サマナン、食料は足りる?」
「干し肉なら余裕があるし、いざとなれば蛙でも捕るさ」
晩秋から初冬にかけて蓄えられるある種の樹液が魔術媒体に必要との事で、この時期は護衛も兼ねて彼女と一緒に森を歩くようになった。
「ダルンナ、あまり奥へ行くな。ここは迷う」
「誰にものを言ってるの、ハウスドルフ・ベシコビッチ位相については魔術‥‥」
「あーわかったわかった。狼や熊がいないとも限らんだろ」
かき集めた枯枝や木片を地面に組み、火を点けようとした所で青い燐光が目の前をよぎった。
並べた焚き木を再び集め、それでも逡巡する。この場に留まれば命はないが、かといって洞窟の奥に逃げても無事に戻ってこれる自信はない。
「サマナン、急いで!」
見上げればダルンナは既にケープで口元を覆っていた。短い詠唱の後、熱を伴わない魔力の灯が周囲を照らす。
「でも‥‥」
「助かりたければこっちよ!」
荒々しく荷物をまとめ、ダルンナの手を取り奥へと急ぐ。
「離れるなよ」
「誰にものを言ってるの」
返事はどこか軽やかに聞こえた。
洞窟の不思議さについては、隣のダルンナを始めとした魔術士たちによって幾つかの説明はされていたが、平たく言えば常に様子が変わり続ける迷宮だ。
「正しくはヴェルニースの洞窟と呼ぶべきなんだけど」
「町じゃ子犬の洞窟で通じるからな。他の家畜や子供も見失ったら大体ここだ」
魔獣よけに生成した岩壁に背中を預け、焚火を見つめる。
「貴方が家出した時は、そりゃもう大変で」
「犬を捜してたんだよ。まぁ、その、数日は迷ってたけどさ」
幸いにして深さは変わらないようで、慎重に上を目指し続ければいつかは地上に出られると知れたのはとんでもなく運が良かったのだろう。迷い込んだ動物を獲って食べるコボルトやゴブリンもいると、後で大人たちから厳しめに教育された。
「でもな、その時ふと思ったんだ。ようやく見つけた子犬は、本当に俺たちの町からいなくなった、あの家の飼い犬なのかなって」
もちろん杞憂だ。連れ帰った子犬は元の飼い主に会わせるや喜び勇んで飛びついたし、それまで泣きじゃくっていた女の子もこぼれそうな笑顔で礼を言った。
「‥‥もしかしたら今、この洞窟のどこかで、もうひとりの俺とお前がこうして焚火を囲んで、エーテル風が過ぎ去るのを待っているんじゃないか。俺たちが町に戻ったら、同じ顔のサマナンとダルンナが家にいるんじゃないか‥‥って」
「考えすぎよ。そこまで大それた洞窟なら、厳重な管理に騎士団が派遣されてもおかしくはないわ」
ダルンナの寄せる肩の重みが胸の不安を抑えつけるようで、俺は軽く目を細めた。
「離れるなよ」
「ええ」
結局、3日ほど足止めをくらっただけで何事もなく町に帰り着いた。俺たちより先に帰宅した俺たちなんていなかったし、遅れてやってくる俺たちも現れたりしなかった。
それからしばらくして、俺はダルンナと結婚し月日は流れ。
妻に先立たれた後も狩人を続けて、幾度目かの冷たい雨の季節がまた巡り。
最近、あの時の出来事を思い出すようになった。
「‥‥」
いつか東の向こうから、エーテル風に追われる怖がりな狩人が町に駆け込んでくるんじゃないか。あるいは――
今もあの洞窟の奥で焚火を見つめている彼女を捜し出せるんじゃないか。
-了-
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