それは、ある夏と冬の幕間。
巨象の溜息にも似た深く沈んだ音と共に膨れ上がった光の柱から乱暴に弾き出された俺は、うぅだのイテテだのありふれたうめき声を漏らしながら、しばし冷たい雪原で身を震わせていた。
雪原?
すかさず自分の頭に右手をかざす。いつも斜に乗せている狐の面を――よし、落とさずに済んだな――顔面を覆うように被り直した。これが本来の使い方だが。
「‥‥寒いなぁ、おいぃっ!」
お面以外には指輪を二つと、腰を隠す下着一丁だけを穿いた痩せぎすの身体を、両手で激しく擦りながら立ち上がる。足の裏が刺すように痛い。
「ウオオオァァァイェイェイェイウォウォウウッウォーー!!」
地平線の果てまで届けと言わんばかりに叫び声を上げながら、狂ったように全身を叩く。とにかく地団駄を踏む。
ひとまず身体を温めた所で、改めて自分が放り出された場所を見渡せば、どこまでも薄暗い銀世界が広がっていた。
「‥‥で、何処だここは?」
曇天の空からは、星の代わりに仄青い燐光がゆっくりと舞い降りてきた。
俺の名はカイム、冒険者をやっている。同業者からは神秘の塊である”ニンジャ”なんて呼ばれたりもするが、まぁそこまで不思議な奴じゃあないよ。多分な。
昼までは南国のビーチで寝転がりながら美女たちの神々しい姿を拝見していたんだけどな、ちょいとばかり厄介な連中に目を付けられて半裸のまま逃げまわる羽目になった。
で、エヘカトルに祈りながら魔法のポッケをグワッと開き、まぁバカンス気分で慢心していたんだろう。ムーンゲートに飛び込んだのがつい先程。
「エーテルの風が吹いているのなら、イルヴァだよな」
ムーンゲートは異なる二つの場所を繋げる門だが、同じ世界であれば時間を跳ぶことは滅多にない。だから、俺がいま凍えながら立ちすくんでいる雪原は、イルヴァの北方、それも極地に近い地域だと当たりを付ける。
「大氷原‥‥」
帰還の魔法で帰るには余りにも遠すぎる。
ため息混じりにもう一度、魔法のポッケを開こうと印を結びかけ――途中で止めた。
魔法のストックを予想以上に消費している。普段は愛用の導具を用いて魔法の消費を抑えていたが、徒手空拳に近い今はムーンゲートを取り出すなど無理だ。せいぜい小さくて軽い日用品を二つみっつ取り出せれば御の字か?
「駆け出しの頃を思い出すなぁ‥‥泣けてくる」
慎重に、手斧と、ランタンを取り出した所でポッケは途切れた。
「女神様よ、次からはイークの巣とか、せめてミノタウロスのさ、服を剥ぎ取れそうな連中のいる所に飛ばしてくれ。いや、エウダーナのハレムの方が良いな」
意識を保とうと軽口を叩きながら歩き続ける。
おおイツパロトル! かつて御身に形だけでも帰依していたのが、いま元素の加護として役立っております。あとほんの少しだけ温もりを奮発してくれれば言う事無し。
大気を包むエーテルは狐面に込められた魔力で防がれている。後は風に吹かれている内に、出来るだけ南に進み、海岸沿いに東を目指す。エーテル風の早さからメイルーンに近いと踏んだ。
「ウルルッタたちは‥‥ま、適当にやってるだろ」
あの従者なら、ビーチに残してきた荷物も回収して宿屋に戻っている頃だろうか。2~3日こちらからの連絡がなければ、パルミアの自宅に帰って‥‥それっきりかもしれないな。
だんだんと口数が減ってくる。パルミアと違ってエーテル風の中でも大型生物に出くわさない。
それはそれで助かるが、今は身にまとえるだけの毛皮が欲しいんだ。
予想外にエーテル風が早く収まってしまったのも誤算だった。まだ海岸には辿り着いてないし、エーテル風が止めばここは吹雪に代わる。
「参ったな。こいつはまずい」
手元の指輪で進むべき方角は判っていても、足元を探りながらでは歩ける距離は短くなる。
そして、進もうと止まろうと――腹は鳴る。
「お腹がすくと、どうして泣きたくなるんだろうなぁ」
意識が朦朧とする中、雪原のど真ん中に腰を下ろしランタンの灯りを点す。風で吹き飛ばされないよう、手斧を重し代わりに引っ掛けた。
もしかしたら、狩人やキャラバンが近くを通り過ぎるかもしれない。この小さな灯りに気づくかどうかは、女神の気分次第だ。
「んじゃ、おやすみ」
目を閉じた瞬間、意識が途切れた。
――暫くして。
雪の積もった男の傍に、数両の犬ぞりが立ち止まる。
そりから降りた人影が男に近寄り雪を払うと、行き倒れて数刻は経っているだろうにも関わらず、男の身体がまだじんわりと温かい事に気づいた。
人影は仲間たちに声をかけ、幾つか話し合った後、男と僅かな荷物をそりに乗せて運び去った。
その後、俺がどうなったかは、また別の話だ。
幸いにして俺は生きているし、もしかしたらどこかの吟遊詩人が語るメイルーンの物語にチラッと登場していたかもしれない。
この時期になるとな、思い出すんだよ。
-了-
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